20261103_10月の記録

今月は、文が多いのでそのまま載せてみようと思います。固有名詞がここに載せる感じではないものは隠しておきます。長い自問自答の文章は、狂っている感ある。今回はすごい回かもしれない。

内容は多くが、上手く作れているときとそうでないときの違いについてです。 というかここ最近似たことを別の言い方で繰り返し書き続けている。これは、なんなんだ・・・。

歌は、ンタラ
歌はンタラかもしれない

オシレーター音楽は作れるけど歌は作れないよと思いながら散歩していた

覚えてる歌の曲とオシレーター音楽のメロディを口ずさんで比較していた

歌のメロディの特徴は コードの変化とともに使う音の幅が変わる 8.16小節ごとにリズムパターンの変化をしたりする タタタで歌うと、ギターのストロークのような、物体の往復運動のようなものを感じる タタタというか、タッタッタがある

ンとラとタで口ずさむとき、8ビートとかトレシージョとかに似たところに、タ(アクセント)が来る感じがする

逆にオシレーター音楽のメロディは、跳ねたりするリズムはなく、ラーラーラーという感じでずっとコーラスっぽい感じがする。もしくは使う音域が常にかなり広く動く感じがする。

ンとラとタが大事だなと思って、詞も同じかと思って、タだなと思うところに破裂音、ほかには閉鎖音をあてて適当に文章を言うと歌っぽくなった気がする


再生機器を持たないで散歩していたんだけど、頭内再生と鼻歌では結構歌っぽいのを作りまくれて、歩いていること、ほかの楽器を聞かないこと、記憶でやっていること、ンとタとラでやっていること、何がいいのかわからないが、散歩しているほうが作れるのかと思った。

さっぱり・脱力・みやすい
絵で考えてることで
さっぱり・脱力・みやすいみたいなキーワードがある。

さっぱり
要素が限定されていて見やすいこと(形態の知覚的な簡潔さ)

脱力
作者がすでにあるものの際現に躍起になってないこと 作者の性分や道具に基づいたスキルツリーで育てられている絵で自然体なので見る側が再現とのズレとしての上手い下手を判断しなくてよくて脱力してみられる感じのこと(本人の味の良さと見る側の気楽さ)

みやすい
キャラの顔などのかたちが系譜に基づいていてすんなりはいってくること。デフォルメが洗練されていて見る側にもなじみがあること。(再現的上手さ、どの系譜の形を採用するかの判断)

という意味で思ってる

慣らしと再現
慣らし
ただ繰り返すことで目的になること
作り方を知っていて、慣れていて容易いもの、戻ってこれるもの

実験(再現/探索)
慣らしに目標を一つ加えること
計画と記録をする 同じ条件で繰り返して慣らす
再現的なことと、探索的なことがある。
再現は、アレ風に描いてみようとか、巧拙があるもの
探索は、この要素に集中して作品化してみようとか、どうなるのかわからないもの

客観的な良さ(知覚/系譜)
人にわかるものにするために必要なこと
絵なら例えば
知覚的には顔を入れること 系譜的にはその顔の型を選択すること
曲なら
歌を入れることとその型

誰かにあげたり何かの別の目的のための使用できるものは、(再現性があるので)慣らしでできているものだけだと思う。私は素の状態では単発の実験をし続けるから、意図して慣らしの割合をあげてようやく上手くいくと思う。

繰り返すこと、意図して慣らしのもののよしあしの見極めを、今年はしている気がする

系譜にのせたり、知覚的に良いものを作るために、再現は必要だが、 単発でしかできなければ(楽しむのが目的でなければ)困るし、再現が目的になるとズレが際立って悪くなるし、再現の域をでないからつまらない。

とはいえ、
意識的に同じことを繰り返したり慣らしですることは私にとってとても恩恵がある。
単発実験症を作品にできるし、手を動かして楽しい時間を引き延ばせるから。
繰り返すといつか結果がでるんだけど、もっとやってやると思って、できないこととか、グローバルな価値を持つものに手を出して、悪しき再現にハマるのが、本当にお決まりのパターンになっている。

自分が継続して作っていく方法としては

以前は何かに強烈にハマれば、それとその崩しバージョンを作れて、自分も作れて楽しいしそれが好きな人にも喜ばれるから、いいよねと思っていだわけだけども
飽きたり、同一化したいというほど強い衝動を得られるものが(見つくしていって)少なくなっていくから、手を動かして面白いということ(単発実験のみで善し悪しを評価しない)だけによっていって、問題があった。

そして、ベースの知覚的な良さを考えたり、系譜を使ったり、できるものを極端化していったり、実験を作品化する方法など、一つの再現衝動によらない、人に理解可能で面白みのあるものを作る方法が、絵でなんとなくわかった。けど、それも上記の落とし穴があり、それを体験した、というのが現状だと思う。


客観的な良さ
ちょうどいい→好き、ありがとう
しすぎ→下手、つまらない
しなさすぎ→意味不明、興味ない


慣らし
ちょうどいい→その人らしい、コンスタントにできる
しすぎ→あきる、変化なし、つまらない、緊張感がない
しなさすぎ→単発実験症


絵では一つの再現衝動によらないもので、作品を作って自分も人も喜ばせられたけど、音楽ではできるのだろうか。 絵では系譜が明確かつ立体的な知識を手に入れていた、知覚的に重要なかわいさとか人間とか明度設計を制作のメインの課題にしていた。 グレードールは漫画のモノクロ表現とシックな服装や和装や黒髪というモチーフとの関係があって、一枚絵を作る分、ベタのところを日本画のにじみを使ったり、平面的な植物の描写を組み合わせられたり、戦後の日本のグラフィックデザインの感覚も組み合わせられるよねということなど、形式の理解とささやかな拡張をしていた。 グレードールという系譜を探索するうえで、モノクロや平面的なフォルムしかよく使えないという身体的/技術的な制約がぴったりあっていた感じがある。

なので、私は?作ろうとしている音楽の系譜の立体的な知識を手に入れ、歌とかメロディとかビートとか、知覚的な良さのみに絞って制作すればいいのかな。

算数
〇の〇の〇と〇をみて、リズム遊びを原動力に曲を作っていたことを思い出した。曲に一か所はリズム遊びや変なビートパターンを入れるぞというところから、それを含んで成立する曲はどのような形かを考えて作っていく方法。〇さんの言っていた、ギターで2コードの反復運動をもとに曲を作るとき、展開を変えるためには難しいコードに飛んでみているということに近さを感じた。

私がそれをしなくなったのは、増減可能な拍のリズムを持つこと、複雑な周期をもつこと、リズムを気分で部分的に崩すこと、リアルタイム入力をもとに無根拠に難しいリズムを作ること、などなど、を曲ごとでやっていたわけだけど、歌を乗せるのが困難で、曲を完成できなくなってしまったり、ほかの要因もあって音楽らしい音楽をつくれなくなってしまったので、すべて封印していたところがある。

解決できる、発展できる問題になっている場合は作品作りの動力になるからよくてそうでないものはよくないという切り分けを、今ならします。

最近のピアノロール遊びとしては、この音形にどの操作をしたら何を生成できますか、という発想だったけど、リズム遊びの場合は、この難しいリズムを使うには、どのような流れが必要で過程に何が生まれますか、という生成方法だと思う。 以前はリズム遊びをしながらも、この単純な算数を曲に入れることに何の意味があるのだろうかと思っていたが、作品の中でのチャレンジと解決があることで展開の動きや作品の自律性や完成させたさが生まれるので意味がある。

今や残っているのは、6/8のグリッドでどの曲もつくるという謎の癖や、1/8Tと1/16の組み合わせとか、うっすら動きのあるリズムをつくるための工夫だけだった。

なんでそんなにリズムにこだわっていたのかは、できる操作が切り貼りと配置くらいしか思いつかなかったから、だと思います。

系譜と土台
最近、音楽も絵もだけど、いい作品制作のゾーンを通り越した原因を明らかにしたり、はじめに取り組んでいたテーマの必然性とか、面白さとか、を再発見している。これは、単発実験症者としては必要な一周な気がする。

やってると途中で、変じゃないようにするにはどうすればいいんだろうとか、偏ってる部分のできない部分をできるようにしようとか、自然にそうなると思う。そうなると、この手持ちで次こうしたらどうなるんだろうという、自分が引いている線ではなくて、これがベターならやってみるかというなぞり線になってしまう。ので、よくないですよね。しかし、それもあるよ。

絵で、キャラ顔作るときに、好きだけど、とはいえ精神的に距離がある状態で系譜の再現をしてうまくいったから、それを勘違いして、無のベターとか、道具的ちかさも知識の深さもない系譜の再現をパっとしてみせちゃおうみたいなことをしたことで、よく作れなくなったと思う。

系譜の再現としてのなぞりは(同一化したい、してみせたい、だけすれば)いいけど、なんの系譜でもないベターみたいなのをしようとするのはよくないということか。

それ以上の再現はしなくてすむだろうか?

けど、音楽を作るとき、話すときの言語と同じように、土台に無数に引き継いでいるものがあるから、それはどう扱うの?それは再現的なことではないですか。

系譜と再現について、基本悪化させるものとして扱ってるけど、意味わかってない繰り返しになってつまらないものが生まれる危険があるから、なんだけど、土台に採用しているパターンについては、再現というよりも、浸かっちゃってるもので、それに自覚的で詳しくなる、使いこなせるようになる必要はあるんだけど、でも、無のベターはそこに潜んでいる気がする。例えばヘッドフォンでは音量は大きいほど音質が良く聞こえるということ、があるとして、場面によっては小さいほうがいいのに、無のベターとして採用しちゃいそうだもん。

価値判断を受け取ってはいけなくて、知ることにとどめるのが必要だ。 と、いう話だろうか?

土台に引き継いでいるもの、自分が理解していると思っている音楽の典型みたいなものにおいて、その中の良しあしは絶対的なものとして受け取って構築することになると思う。それはどうなの?
良し悪しというか、可能不可能みたいな感じがする。metaroomみたいな典型の中で、サステインが長い音とか、グリッド感がないものとか、老人の歌声とかは、入らないんじゃないんですか、みたいな、でもこう思うと、別にできそうかつ面白そうなんだけど。(12平均律を使うとかのほうが近いのか?)

良しあしや可能不可能でないとすると、まずこれを基本形とする、として受けっているものがあるということが、すこぶる再現的かつ変えられない、というのが問題なのかな?と思っていると思う。

言語で考えると、日本語を使っていることは、現在進行形のことで、その口の形以外動かないし、そのようにしか考えられないし、そのフィールドに限定するしかないというか、無よりはいいよね、くらいのことな感じがする。

ウリポのように、拡張することはできるけど、土台として受け取っていること自体は変えられない。

そう思うと最初に受け取ったものは大きすぎる。

所在地説
10歳以上上の世代と自分の、作るときの根の発生の仕方が違いを感じる。

現実世界の場所に根差していて、そのイベント、そのビルに行って話に混ざれば仲間に入れるという感じが上の世代にはあると思う。

私の実感としては誰かが残したもの、アカウントやホームページを見て、アーカイブとずっとやりとりしてるみたいな感じがある。 そして自分もアーカイブを残し、興味を持ってくれた個人が話しかけてくれて交流ができる。

それぞれのアーカイブは、フォロー欄・フォロワーのフォロー欄・いいね欄などの網目でたどれるの空間の上にあったと思う。 非公開情報になっちゃったので、土地の空間も人の空間も使えなくなり、さらにデジタル制作をしていると道具も均質化しているし複数使うため、手法の区別も空間足り得なくなっていると思う。

それで、エステティクス的なものがあるのは、様式の生成と選択が、残された場所つくりの方法だったからなのかなと思う。手法と関係なく目で見てわかるし、似てるものに反応すれば似てるものに会えるというように。

エステティクス的なものは、個々の同一化と個性化の欲望を利用されて、商品を作る人/買う人 モデルとなる人/コピーを欲望する人、みたいな二分法に巻き込まれているという、モードと権力に近い見方で悲観的にみてしまうところがあったんだけど、こう考えたい。

人々は交流のために自分の所在地を示す必要があって、モデルとの位置関係を作品でしめしているのだと思う。あるモデルを洗練させる人もいればほかのモデルと接続して見せる人もいて、それは、拡散と収束の2方向での運動の死を止めるための役割を果たしていて、それが評価されたりされなかったりするのだと思う。
煮詰まりすぎず薄まりすぎずの運動があり、濃淡のどこのどの方向へ位置しているかが、その人の所在地という感じがする。

個々人の作品が様式の濃淡の上に座標点を打っていて、そのどれもが指し示すことができる地点になるから、お互いにいてくれることに意味がある。
差異を生産するのは売るためであるとか、プラットフォームの収益化に利用されていますよということはあるが、様式で位置を作るのが個々人の交流のために必要なことになっちゃっていて、対象との同一化とか差異化のゲームに興じているみたいなイメージではないのではないか、ということを言いたい。
戦いっぽい絵
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こういうのが慣らしの絵です。

見たり読んだりしたもの

ふしぎなえ
安野光雅
ABCの本
安野光雅
もじあそび
安野光雅
夏の終点 上下巻
西尾拓哉
繕い裁つ人 全六巻
池辺葵
おとぎ話の社会史
ジャック・ザイブス著/鈴木晶・木村彗子訳
ビジュアル・アリージョン
N・ウェイド著/近藤倫明訳
視覚のトリック
R・N・シェパード著/鈴木光太郎・芳賀康郎訳

展示会・色の引き算
国際子ども図書館
きのこ展
筑波実験植物園


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