20260220_1,2月の記録
1月の12日から2月20日までの間、絵で作品を作ってコミティア155(2026/2/22)に出すとだけ決めてやっていました。1月の更新をしなかったのと、それを中心に生活していたものが完成して記憶のきりがいいので、1~2月分の記録をこのタイミングでします。
完成物
A4変形20pで、このような絵の本を作った。
トリミングしている、あとでこのサイトに絵の項目を作って載せると思う。4枚目は表紙。
制作の流れ
1
はじめに漫画を描こうとしていた。話と下書きを描いた後に、描くべきものが多く、人物の体がまず描けないと気付いた。体を含めた絵を描く練習を込めたイラスト本を作ることにした。
(漫画はシーンや空間を作りたかったこと、好きな漫画ができはじめてきたことと、絵を描く気分があったことから、描こうとしていた。)
2
体の描きかたを作るにあたって、何を下敷きに描くかが問題だと思った。
自分でポーズをとり写真を撮る・3Dデッサン人形・脳内デッサン人形・人物の写真からとる・漫画や絵からとるなどあると思う。それぞれの方法なりの絵になると思う。いままで自撮りを使っていたが、もっと平面的でキャラクターの絵っぽい絵を作りたいと思っていたので、上にあげたほかの方法を試した。体は3Dで、肩より上は自撮り参考ありとか、やはり存在ないキャラクターの顔の角度を描くのは難しいから、漫画から全部取ったほうがいいと結論した。CLAMP作品の中古本を買いあさりかわいいポーズをとり、3Dデッサン人形で再現して別角度を探して描くなどの方法をとった。頭と体、髪の毛束や指の大きさの比率などをそろえるのも問題だった。
3
顔だけの絵と違って体を含めると、ほかの物体が描かれてほしい空間が生まれるのと、見ごたえのある絵も作ってみたいこと、平面的な(望遠の)体を描いていること、階調を絞って描いていることから、江戸琳派のような植生の模様を描くことにした。ある程度バリエーションを描いたらコピペと並べ替えで絵を作れること、望遠なので人物と合わせてシールのように配置できることが面白い。おしとやかな感じのモノトーンの服を着た人物(グレードールと呼んでる)と合わせて、洋服のことをお洋服と呼び、芋を小皿にとって箸で割って食べそうな雰囲気が出た。
4
模様望遠人物のスタイルをいいと思ったので、屏風絵のように横長キャンバスを見開きで配置して完成させようと計画して、複数描いた。奥行を感じるためにそれぞれの人物に性格を決めて、それぞれの人の絡みの絵も作った。
考え
A
絵を作っていても音楽つけたい/音楽をつけて完成にできるな、とか思い、mv動画という形式と心が癒着してることを自覚した。
B
模様望遠人物のスタイルが見えてきたときは、自分が見たいものの別バージョンを自分の作れる範囲におさめて手を動かしてつくること(手を動かす間に自分の作れる範囲が発覚していき、その中で試行すること)、形の操作のその絵だけの楽しさ、を感じてよかった。この感覚がいいと思う。
上のような散歩的な試行の中でできるものの良さの底を一定の努力で保ち続けるのが気分良く作るのに必要で、その方法のひとつがキャラクターを入れることだと思う。今回はグレードールのムードの上でそれをしたつもり。
11月の顔芸の期間、間髪いれずに多くのものを完成させたのが初めてで、こんなことできるのかと驚いた。
あの感じで作り続けられればいいだろうと思う。
C
決めた完成を目指して手を動かすのはやはり難しい、イケてるのかイケてないのか考えて止まってしまう。
一個一個が試行そのもので意味があると思えば手を付けられる。シーン・世界の実現は、そうやって作った画像に解釈をしてつくれる(し、そうではない方法ではそもそも手が動かない)と思う。
話題の整理
・散歩的試行(近視的だが感覚で理解している問題の試行、それ自体が目的で楽しいこと)
・できるものの良さの底をムードとキャラで保とうとすること
・こういう世界を完成させたい、魂いれたい、ような作る楽しみとは別の目標を持つことと、それを目指して作るのが難しいので、事後的な解釈でしかできないかもしれないこと。
この3つのバランスを感じている。
ほかの事
・ダークソウル3とエルデンリングクリア
・キキョウ・春菊・光の4英雄
・火-紙・火-水・火-油・紙-水・紙-油・水-油・魔法表象について
D&D的世界 JRPG的世界 トールキン世界 これらの類型を見た後にマジカル(魔法世界的な表象の部分)とはなんだと思うか。 フィクションの世界を手にすることへの希求心と言ったら言い過ぎか 世界を作る欲求を類型の反復で満たすことができる 世界を作ることそのもののごっこ遊びのセット これは類型化されたフィクションの説明であって、具体的な性質とは関係ないのか?(SFでも同じことはある) 類型化されたフィクションと、類型化されていないフィクション 類型化された事実(?)と、類型化されていない事実 という格子があったとして、なぜ類型化されたフィクションは独特のうれしさを持つのか? 類型化されたフィクション→ごっこあそびのコマとして力を持つ 類型化されていないフィクション→それ自体しかあらわさない 類型化された事実→共通認識の力は持つが、事実に嬉しいも嬉しくないもない 類型化されていない事実→それ自体しかあらわさない この格子に対して上のようなうれしさの評価をするにあたって、なぜSFではなく魔法の類型を選ぶかの理由を求めることができる。 魔法の類型においては、SFのように論理的な健全性を求めず、類型そのものの力が問題になる。 類型化されていないフィクションこそが自由な創造なんじゃないかというひけめ(魔法表象の反復は(自由さの象徴のような意味での)魔法的な創造ではないのではないか)が魔法表象にワクワクする立場としてはあるが、トールキンの中世英語英米文学や北欧神話研究の文献学者活動から現在の魔法表象が端を発している(本当?)と考えると、魔法世界的であることは、物語の類型化の力なのではないかと開き直ることもできる。 慣習で保っている形とイメージを使いまわす力。その上で誠実な態度は手前にあるものを使いまわすのではなく、神話や民話を探すことだと思う。
読書
尾崎翠(筑摩書房)
尾崎翠
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